「ただいま戻りました」
由紀夫との熱い情事の後、家に帰った雪菜は書斎で研究の文献を探していた夫の正幸に声を掛ける。
「お帰り。だいぶ遅かったね」
「えぇ…昔話に花が咲きすぎて…」
由紀夫との禁じられた情事を見抜かれないように細心の注意を払いながら、雪菜は高校時代の昔話に花が咲いてしまって遅くなってしまったと答える。
「その相手は確か高校の先輩って言っていたな。まさか男性じゃないだろうな?」
正幸は雪菜が今夜会う相手が高校の先輩としか聞いていなかった。
それが男性じゃないだろうなと雪菜に訊ねる。
雪菜はまだ若い…だが、自分は老い先短い…しかし、雪菜はまだこれから女としての魅力が増す年頃…初老を迎えた正幸の胸には、雪菜と歳が近い男性が雪菜の前に現れたら雪菜を奪われるのではないかという不安が常に付きまとっていた。
「いいえ…茶道部の先輩です…」
「本当かい?」
「本当です…私が嘘をついたことがありますか…?」
男性と会っていたのではないかという正幸に、雪菜は自分が会っていたのは高校時代に所属していた茶道部の先輩で男性ではないと答え、それでも疑う正幸に自分が嘘を言ったことがあるかと正幸に訊ねる。
正幸に嘘をつくのはこれが初めてだった。正幸と付き合いだした時の雪菜はまだ男を知らぬ純真な身体だった。
だから男性とは正幸だった。
だが、今夜、雪菜は別の男性を知ってしまった。それも初恋の相手その人だった。初恋は特別な物だと人は言うが、その通りだと雪菜は思っていた。
「雪菜…私を置いてどこへも行かないでくれよ…」
正幸は雪菜にすがるように抱き付くと、老い先短い自分を捨てないでくれと呟く。
「います…私があなたを置いてどこへ行くと言うのですか…」
由紀夫との情事を見抜かれているような正幸の言葉に、雪菜はどこへも行かない、正幸しか知らぬ自分がどこへ行くと言うのだと答え続ける。
正幸が向ける痛いまでも純粋な愛情に、由紀夫と会っていたことなどとても言えなかった。まして、抱かれたなんてとてもじゃないが言えない。
茶道部の先輩と会っていたという嘘を繰り返すしかなかった。
「もう休みましょう…あなたも…お疲れでしょう…?」
自分のもとを去らないでくれと言い続ける正幸に、雪菜は疲れているから寝室で休もうと提案する。
今夜は正幸に求められる事を心のどこかで覚悟していた。
案の定、正幸は雪菜を求めた。
どこへも行かないでくれ…ずっとそばにいてくれと呟きながら雪菜を求め続けた。その度に雪菜はどこへも行かない…ずっとそばにいると正幸に答え続ける。